神仏霊場参拝の旅5
どうも、リューです。
神仏霊場参拝の旅、今回で5回目です。
毎度、毎度、話が長くなってしまい、
なかなか先へ進まないブログですが、
今回はバババッと5つくらいいっちゃうぞ!
では8月17日泉涌寺の続きからです。
11.観音寺(かんのんじ)
京都市東山区泉涌寺山内町32
泉涌寺山内にある真言宗泉涌寺派の寺院。
泉涌寺の塔頭のひとつで、
今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)とも称される。
山号は新那智山。本尊は十一面観音(秘仏)。
大同年間(806年~810年)空海が庵を結んだのに始まるとされ、
藤原緒嗣が伽藍を造営したと伝えられる。
永暦年間(1331年~1334年)新熊野神社が建てられると
その本地仏を祀る寺とされた。
昔より 立つとも知らぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり
泉涌寺からの帰り道に発見した観音寺。
御朱印の写真の右上に『西國十五番』と印が押されていることからも
分かるように、ここは西国三十三所の十五番札所でもあります。
それだけではなくて、
ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場第一番札所、
洛陽三十三所観音霊場第十九番札所、
京都七福神えびす神奉祀でもあるこの観音寺は、
もちろん私が巡っている
神仏霊場巡拝の道(神仏霊場会)百二十二番(京都四十二番)霊場
でもあります。
しかし御朱印は西国三十三所のもの。
聞くところによると、神仏霊場会の独自の御朱印というものは無いらしく
西国の御朱印を押しているとのこと。
この頃から、今まで行ったお寺で、
ちょくちょく目にする『空海』のことが気になり始めてきました。
学生時代、勉強のべの字もせず、宿題のしの字もせず、
「宿題を真面目にやってる奴と全くやっていない自分の
履歴書は同じ学歴になる。だから、やる奴はバカだ。」
と豪語していたまま大人になった私に『空海』と言われても
「なんか歴史の人」という乏しいにも程がある知識しかなく、
『空海=弘法大師』ということも解かっていませんでした。
しかし、『南無大師遍照金剛』(なむだいしへんじょうこんごう)だけは知っていました。
私が高校3年生の時、他界した祖父の
初七日(しょなぬか)から七七日(なななぬか)つまり四十九日まで
お坊さんから「このお経を読んであげて下さい」と言われた中に
『南無大師遍照金剛』はありました。
その『南無大師遍照金剛と唱えながら云々』と書かれた像がこの今熊野観音寺にあったのです。
私の記憶に強烈に残っているこの言葉、所々ではありますが『般若心経』の
記憶も蘇ってきました。理由は解かりませんが何か好きだったんです。
『般若心経』言えたらカッコイイな・・・と当時思っていてたんだと思います。
『南無大師遍照金剛』とは要するに空海のことで
『空海=弘法大師=南無大師遍照金剛』と言う事です。
いや、もちろんとっくにご存知の方にとっては、
何をえらそうに当たり前のことを説明しとんねん。
となるでしょうが、私にとってはこの発見から、
今後のお寺の見方が変わってくるきっかけとなる発見だったのです。
素直に弘法大師様について「もっと知りたい」と思いました。
「オレって、ひょっとして、真言宗?」
この『神仏霊場ブログ』の第一回の時に、
私の家は無宗教と書きました。
祖父は間違いなく真言宗でした。
我が家は分家ですが本家が真言宗なら分家も真言宗になるのでしょうか?
まあ、まあ、真言宗くらいメジャーなら大丈夫でしょうが宗教の話は
色々ややこしいことも出てくるので、この辺にしておきましょうか。
ブログもこの辺にしておきましょうか。
残り141!!
ではまた次回ノシ